けいし ぶり ょ く が ん - キノコと免疫【龍野マルゼン薬店 健康豆知識】

ょ けいし が ん く ぶり 【漢方解説】桂枝茯苓丸(けいしぶくりょうがん)|漢方セラピー|クラシエ

信州会クリニック

ょ けいし が ん く ぶり イボ治療だけじゃなかった!ヨクイニンの意外な効果8選

ょ けいし が ん く ぶり 桂枝茯苓丸加薏苡仁(けいしぶくりょうがんかよくいにん)について

ょ けいし が ん く ぶり 漢方生活その後

ょ けいし が ん く ぶり イボ治療だけじゃなかった!ヨクイニンの意外な効果8選

ょ けいし が ん く ぶり 子宮外妊娠後の漢方相談

「く」で始まる言葉(7文字ちょうど)

ょ けいし が ん く ぶり 漢方と西洋医学の統合治療が、がん患者のQOLを上げる

ょ けいし が ん く ぶり キノコと免疫【龍野マルゼン薬店 健康豆知識】

ょ けいし が ん く ぶり 抗菌薬と痛みの関係

ょ けいし が ん く ぶり 「排卵日に起こるつらい頭痛」ストレッチなどで少しでも和らげよう

【炎上】ニコニコ動画(く)新サービス発表会が酷すぎてお葬式状態に

桂枝茯苓丸の効果・効能・副作用……美肌・肩こりにも [漢方・漢方薬] All About

この三右衛門が殆ど毎日往来した 小山田与清 ( おやまだともきよ )の『 擁書楼 ( ようしょろう )日記』を見れば、文化十二年に五十一歳だとしてあるから、この推算は誤っていないつもりである。 これより 先 ( さ )き四年十月朔に、抽斎は 月並 ( つきなみ ) 出仕 ( しゅっし ) 仰附 ( おおせつ )けられ、五年二月二十八日に、 御番 ( ごばん ) 見習 ( みならい )、 表医者 ( おもていしゃ )仰附けられ、即日見習の席に着き、三月朔に本番に 入 ( い )った。 十二月十五日には 二人目 ( ににんめ )の妻同藩留守居役百石 比良野文蔵 ( ひらのぶんぞう )の 女 ( むすめ ) 威能 ( いの )が二十四歳で 来 ( きた )り嫁した。 それを決するには、どれだけの種類の書を「武鑑」の 中 ( うち )に数えるかという、「武鑑」のデフィニションを 極 ( き )めて掛からなくてはならない。 抽斎の母 縫 ( ぬい )は、 子婦 ( よめ )を迎えてから半年立って、文政七年七月朔に剃髪して 寿松 ( じゅしょう )と称した。 渋江家は代々学医であったから、父祖の 手沢 ( しゅたく )を存じている書籍が 少 ( すくな )くなかっただろうが、現に『 経籍訪古志 ( けいせきほうこし )』に載っている書目を見ても抽斎が書を買うために 貲 ( し )を 惜 ( おし )まなかったことは想い 遣 ( や )られる。 わたくしは 曠 ( むな )しく終吉さんの 病 ( やまい )の 癒 ( い )えるのを待たなくてはならぬことになった。 これは従来 寧親 ( やすちか ) 信順 ( のぶゆき )二公にかわるがわる勤仕していたのに、六月からは 兼 ( かね )て 岩城隆喜 ( いわきたかひろ )の 室 ( しつ )、信順の姉もと姫に、また八月からは信順の室 欽姫 ( かねひめ )に伺候することになったからであろう。 獣医の 縄張内 ( なわばりない )にも立ち入った。 これと同時に抽斎は 式日 ( しきじつ )に 登城 ( とじょう )することになり、次いで 嘉永 ( かえい )二年に将軍 家慶 ( いえよし )に謁見して、いわゆる 目見 ( めみえ )以上の身分になった。 そしてそれに 本 ( もと )づいて文案を作って、徳に筆を 把 ( と )らせ、 家内 ( かない )の事は細大となく夫に報ぜさせることにしたのである。 それは抽斎と 森枳園 ( もりきえん )とが 交 ( まじわり )を訂した事である。 これは養父初代瑞仙の行状で、その墓が向島嶺松寺にあることを 記 ( しる )してある。 允成は寧親にも 親昵 ( しんじつ )して、 殆 ( ほとん )ど 兄弟 ( けいてい )の如くに遇せられた。 わたくしは 直 ( すぐ )に終吉さんに手紙を出して、 何時 ( いつ ) 何処 ( どこ )へ往ったら 逢 ( あ )われようかと問うた。 老年に及んで 経 ( けい )を 躋寿館 ( せいじゅかん )に講ずることになった。 これより先枳園は文政四年に 怙 ( こ )を喪って、十五歳で形式的の家督相続をなした。 二女は 長 ( ちょう )を 智秀 ( ちしゅう )と 諡 ( おくりな )した。 ・Make a big decision and to plan そうなの! その進路変更は正解だったわね。 初め五郎作は抽斎の父 允成 ( ただしげ )と親しく 交 ( まじわ )っていたが、允成は五郎作に 先 ( さきだ )つこと十一年にして歿した。 三家からはそれぞれ返信があって、中にも保さんの書状には、抽斎を知るために 闕 ( か )くべからざる資料があった。 わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を、 箇条書 ( かじょうがき )にしてもらうことを頼んだ。 その墓の 行方 ( ゆくえ )は探討したいものである。 沼田さんは幸にわたくしに 謄写 ( とうしゃ )を許したから、わたくしは近いうちにこの記載を精検しようと思っている。 その頃も女中の目見は、 君 ( きみ ) 臣 ( しん )を 択 ( えら )ばず、臣君を択ぶというようになっていたと見えて、五百が 此 ( かく )の如くに諸家の奥へ 覗 ( のぞ )きに往ったのは、 到処 ( いたるところ )で 斥 ( しりぞ )けられたのではなく、自分が仕うることを 肯 ( がえん )ぜなかったのだそうである。 ただその 相殊 ( あいこと )なる所は、古今 時 ( とき )を 異 ( こと )にして、生の相及ばざるのみである。 それから 明暦 ( めいれき )中の本になると、世間にちらほら残っている。 ここにわたくしの説く所は主として保さんから 獲 ( え )た材料に拠るのである。 幾ばくもなくして病家の 数 ( かず )が 殖 ( ふ )えた。 その一 三十七年如一瞬 ( さんじゅうしちねんいっしゅんのごとし )。 偶 ( たまたま )少数の人が知っているのは、それは『経籍訪古志』の著者の 一人 ( いちにん )として知っているのである。 それでは渋江保という人が、抽斎の 嗣子 ( しし )であったのですか。 表向 ( おもてむき )は弘前藩目附役百石比良野助太郎妹 翳 ( かざし )として届けられた。 そこに「 武鑑 ( ぶかん )」を検する必要が生じた。 その十二 抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと 保 ( たもつ )さんがいう。 『四つの海』は今なお 杵屋 ( きねや )の一派では用いている 謡物 ( うたいもの )の一つで、これも抽斎が多方面であったということを証するに足る作である。 手本を与えて 手習 ( てならい )をさせる。 病が少しく重くなると、尋常の医家は手を 束 ( つか )ねて 傍看 ( ぼうかん )した。 わたくしは幼い時 向島 ( むこうじま )小梅村に住んでいた。 その四 わたくしはこの正保二年に出来て、四年に 上梓 ( じょうし )せられた「屋敷附」より古い「武鑑」の類書を見たことがない。 後に枳園の自ら選んだ 寿蔵碑 ( じゅぞうひ )には「有故失禄」と書してあるが、その故は何かというと、実に悲惨でもあり、また 滑稽 ( こっけい )でもあった。 この書に 拠 ( よ )れば、独美は 一旦 ( いったん ) 姪 ( てつ )京水を養って子として置きながら、それに家を 嗣 ( つ )がせず、更に門人 村岡晋 ( むらおかしん )を養って子とし、それに業を継がせたことになる。 知名の学者では、 朝川善庵 ( あさかわぜんあん )の 一家 ( いっけ )の墓が、本堂の西にあるだけである。 五百は 卒 ( にわか )にその 中 ( うち )に身を投じて、難局に当らなくてはならなかった。 それは 出雲寺板 ( いずもじばん )の「 大名 ( だいみょう )武鑑」で、 鹵簿 ( ろぼ )の道具類に彩色を施したものであったそうである。 この通の 東隣 ( ひがしどなり )の筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になっている。 この 雪冤 ( せつえん )の文を作った外崎さんが、わたくしの渋江氏の子孫を捜し出す 媒 ( なかだち )をしたのだから、わたくしはただこれだけの事をここに 記 ( しる )して置く。 さて住職 奥田墨汁 ( おくだぼくじゅう )師を 訪 ( とぶら )って 久闊 ( きゅうかつ )を 叙 ( じょ )した。 五百が 鍛冶橋内 ( かじばしうち )の上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じような考試に逢った。 中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事に 精 ( くわ )しい 佐藤弥六 ( さとうやろく )さんという老人で、当時 大正 ( たいしょう )四年に七十四歳になるといってあった。 五百の姉安を 娶 ( めと )った長尾宗右衛門は、兄の歿した跡を 襲 ( つ )いでから、終日 手杯 ( てさかずき )を 釈 ( お )かず、 塗物問屋 ( ぬりものどいや )の帳場は番頭に任せて顧みなかった。 これは 褒 ( ほ )めたのではない。 天保十二年には、岡西氏 徳 ( とく )が 二女 ( じじょ ) 好 ( よし )を生んだが、好は早世した。 迷庵の父 光紀 ( こうき )が、 香月氏 ( かづきうじ )を 娶 ( めと )って迷庵を生せたのは明和二年二月十日であるから、抽斎の生れた時、迷庵はもう四十一歳になっていた。 わたくしはそれを遺憾に思って、この 隙 ( ひま )に弘前から、歴史家として道純の事を知っていそうだと知らせて来た 外崎覚 ( とのさきかく )という人を訪ねることにした。 前出・陶潛の『歸園田居』五首其二「相見無雜言, 但 道 桑麻 長。 酒は全く飲まなかったが、四年前に先代の藩主信順に 扈随 ( こずい )して弘前に 往 ( い )って、翌年まで寒国にいたので、晩酌をするようになった。 然るに二世瑞仙 晋 ( しん )の子 直温 ( ちょくおん )の撰んだ 過去帖 ( かこちょう )には、独美の弟 玄俊 ( げんしゅん )の子だとしてある。 怪我は 両臂 ( りょうひじ )を傷めたので骨には 障 ( さわ )らなかったが 痛 ( いたみ )が久しく 息 ( や )まなかった。 その二十一 岡本况斎、名は 保孝 ( ほうこう )、通称は初め 勘右衛門 ( かんえもん )、後 縫殿助 ( ぬいのすけ )であった。 この女壻が 為隣 ( いりん )で、抽斎の曾祖父である。 五郎作は 劇神仙 ( げきしんせん )の号を 宝田寿来 ( たからだじゅらい )に 承 ( う )けて、後にこれを抽斎に伝えた人だそうである。 これは後文政二牛に十八歳で、 留守居 ( るすい ) 年寄 ( としより ) 佐野 ( さの ) 豊前守 ( ぶぜんのかみ ) 政親 ( まさちか )組 飯田四郎左衛門 ( いいだしろうざえもん ) 良清 ( よしきよ )に嫁し、九年に二十五歳で死んだ。 然 ( しか )るに世の人は更に 一人 ( ひとり )の三右衛門を加えて、三三右衛門などともいう。 次に『 群書類従 ( ぐんしょるいじゅう )』にあるような 分限帳 ( ぶんげんちょう )の類を除く。 … 所在地 山形県東根市神町中央1-10-7 営業時間 第二、第四日曜日お休みです。 銀之助 ( ぎんのすけ )様と 称 ( とな )えていた若者で、穉くて 美作国 ( みまさかのくに ) 西北条郡 ( にしほうじょうごおり ) 津山 ( つやま )の城主 松平家 ( まつだいらけ )へ 壻入 ( むこいり )した人であったそうである。 飯田さんの先輩であったとは違って、この人はわたくしと 齢 ( よわい )も 相若 ( あいし )くという位で、しかも史学を以て仕えている人である。 寛政三年六月二十二日に信明は僅に三十歳で卒し、八月二十八日に 和三郎 ( わさぶろう ) 寧親 ( やすちか )が支封から 入 ( い )って宗家を継いだ。 さて誤謬は誤謬として、記載の全体を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これに 優 ( まさ )る史料はない。 わたくしは当時の社会にどういう人物がいたかと問うて、ここに学問芸術界の 列宿 ( れっしゅく )を数えて見たい。 即ち経籍の 古版本 ( こはんぼん )、古抄本を 捜 ( さぐ )り 討 ( もと )めて、そのテクストを 閲 ( けみ )し、比較考勘する学派、クリチックをする学派である。 奥方は松平 上総介 ( かずさのすけ ) 斉政 ( なりまさ )の 女 ( むすめ )である。 しかし隠居 附 ( づき )にせられて、 主 ( おも )に 柳島 ( やなぎしま )にあった 信順 ( のぶゆき )の 館 ( やかた )へ出仕することになっていた。 それから洋学については、折を見て 蘭語 ( らんご )を教えるが 好 ( い )いといってある。 允成は 表向 ( おもてむき )侍医たり教官たるのみであったが、寧親の信任を 蒙 ( こうむ )ることが厚かったので、人の 敢 ( あえ )て言わざる事をも言うようになっていて、 数 ( しばしば ) 諫 ( いさ )めて 数 ( しばしば ) 聴 ( き )かれた。 しかし奉公を 罷 ( や )めた頃は、忠兵衛はまだ 女 ( むすめ )を呼び寄せるほどの病気をしてはいなかった。 その二十 晋 ( しん )の撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子 善直 ( ぜんちょく )というものを挙げて、「 多病不能継業 ( やまいおおくぎょうをつぐあたわず )」と書してある。 その次男が 磐 ( いわお )、三男が今の歯科医 信平 ( しんぺい )さんである。 軒 けんを開きて 場圃 じゃう ほ に 面し, 酒を 把 とりて 桑麻 さう ま を 話す。 然 ( しか )るにわたくしに先んじて、 夙 ( はや )く同じ断案を得た人がある。 夫婦の 齢 ( よわい )は抽斎が十九歳、定が十七歳であった。 今 手許 ( てもと )に末家の系譜がないから検することが出来ない。 大学にある「紋尽」には、 伴信友 ( ばんのぶとも )の自筆の序がある。 抽斎は 宋槧 ( そうざん )の経子を 討 ( もと )めたばかりでなく、古い「武鑑」や江戸図をも 翫 ( もてあそ )んだ。 五百らが 夕方 ( ゆうかた )になると、長い廊下を通って締めに 往 ( ゆ )かなくてはならぬ窓があった。 一瞬の如くに過ぎ去った四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才 伸 ( のぶ )を 以 ( もっ )て 妥 ( おだやか )に 承 ( う )けられるはずがない。 しかしわたくしは 念晴 ( ねんばら )しのために、染井へ尋ねに 往 ( い )った。 さて第四に至って、作者はその貧を 患 ( うれ )えずに、安楽を得ているといっている。 師匠の 中 ( うち )で最も老年であったのは文晁、次は一斎、次は夏蔭、最も少壮であったのが鼎斎である。 渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国 那須郡 ( なすごおり )大田原の城主たる 宗家 ( そうか )ではなく、その 支封 ( しほう )であろう。 枳園の来て 舎 ( やど )る頃に、抽斎の 許 ( もと )にろくという女中がいた。 その氏の喜多を修して 北 ( ほく )慎言とも署した。 五年十二月には 南部 ( なんぶ )家と共に永く東西蝦夷地を警衛することを命ぜられて、十万石に進み、 従 ( じゅ )四位 下 ( げ )に叙せられた。 そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を 徘徊 ( はいかい )して捜索したが、嶺松寺という寺はない。 次を 全安 ( ぜんあん )といって、伊沢家の女壻になった。 これは母 五百 ( いお )の話を記憶しているのであろう。 「道純さんの娘さんが本所 松井町 ( まついちょう )の 杵屋勝久 ( きねやかつひさ )さんでございます。 榛軒、通称は 長安 ( ちょうあん )、後 一安 ( いちあん )と改めた。 その二には「至善院格誠日在、寛保二年 壬戌 ( じんじゅつ )七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年 甲寅 ( こういん )三月十日」と彫ってある。 しかしそれは 賜物 ( たまわりもの )をいうのである。 辰盛は兄重光の二男 輔之 ( ほし )を下野から迎え、養子として 玄瑳 ( げんさ )と 称 ( とな )えさせ、これに医学を授けた。 今保さんは 何処 ( どこ )に住んでいますか。 杵屋さんには渋江 終吉 ( しゅうきち )という 甥 ( おい )があって、 下渋谷 ( しもしぶや )に住んでいるというのである。 その廊下には鬼が出るという 噂 ( うわさ )があった。 その二十四 石塚重兵衛の祖先は 相模国 ( さがみのくに )鎌倉の人である。 名は 信恬 ( しんてん )、通称は 辞安 ( じあん )という。 このコルレクションは保さんの五、六歳の時まで 散佚 ( さんいつ )せずにいたそうである。 その時飯田さんが、「ちょいとお 待 ( まち )下さい、念のために 妻 ( さい )にきいて見ますから」といった。 ただ題号を刻した紙が失われたので、 恣 ( ほしいまま )に命じた名が表紙に書いてある。 お七の父八百屋 市左衛門 ( いちざえもん )はこの河内屋の 地借 ( じかり )であった。 わたくしの俸銭の大部分は内地の 書肆 ( しょし )と、ベルリン、パリイの 書估 ( しょこ )との手に 入 ( い )ってしまう。 人と成って後 確堂公 ( かくどうこう )と呼ばれたのはこの人で、 成島柳北 ( なるしまりゅうほく )の碑の 篆額 ( てんがく )はその 筆 ( ふで )である。 この津軽家の政務発展の時に当って、允成が 啓沃 ( けいよく )の功も少くなかったらしい。 想 ( おも )うに 天保 ( てんぽう )十二年の暮に作ったものであろう。 五郎作はまた 博渉家 ( はくしょうか )の 山崎美成 ( やまざきよししげ )や、画家の 喜多可庵 ( きたかあん )と往来していた。 躋寿館は 明和 ( めいわ )二年に 多紀玉池 ( たきぎょくち )が 佐久間町 ( さくまちょう )の天文台 址 ( あと )に立てた医学校で、 寛政 ( かんせい )三年に幕府の 管轄 ( かんかつ )に移されたものである。 水戸家 ( みとけ )の 賄方 ( まかないかた )を勤めた家で、 或 ( ある )時代から 故 ( ゆえ )あって 世禄 ( せいろく )三百俵を給せられていた。 菓子商、 用達 ( ようたし )の外、この人は幕府の 連歌師 ( れんがし )の執筆をも勤めていた。 わたくしはここに 真志屋五郎作 ( ましやごろさく )と 石塚重兵衛 ( いしづかじゅうべえ )とを数えんがために、芸術批評家の 目 ( もく )を立てた。 戴氏 独立 ( どくりゅう )の表石の事は 始 ( はじめ )て聞いた。 常に宮内省には 往来 ( ゆきき )しても、諸陵寮がどこにあるということは知らなかったのである。 後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐れて、割愛して 刪除 ( さんじょ )したものだそうである。 後 ( のち )『経籍訪古志』に連署すべき 二人 ( ににん )は、ここに始て手を握ったのである。 五郎作は 少 ( わか )い時、 山本北山 ( やまもとほくざん )の 奚疑塾 ( けいぎじゅく )にいた。 通称は 初 ( はじめ ) 玄庵 ( げんあん )といったが、家督の年の十一月十五日に四世道陸と改めた。 この時五百はまだ十五歳であったから、尋常ならば 女小姓 ( おんなこしょう )に取らるべきであった。 亡くなる前にした 遺言 ( ゆいごん )によれば、 経 ( けい )を 海保漁村 ( かいほぎょそん )に、医を 多紀安琢 ( たきあんたく )に、書を 小島成斎 ( こじませいさい )に学ばせるようにいってある。 当時無縁の墓を遷した所は、 染井 ( そめい )共同墓地であった。 宝暦 ( ほうれき )九年に登勢が二十九歳で 女 ( むすめ ) 千代 ( ちよ )を生んだ。 綠樹 村邊 そんぺんに 合 がっし, 青山 郭外 くゎくがいに 斜めなり。 四男は死んで生れたので、 幻香水子 ( げんこうすいし )はその 法諡 ( ほうし )である。 二人 ( ににん )目の妻 威能 ( いの )は 怜悧 ( れいり )で、人を使う才があった。 須磨の夫が飯田氏を冒したのは、幕府の 家人株 ( けにんかぶ )を買ったのであるから、夫の父が大矢氏を冒したのも、恐らくは株として買ったのであろう。 また二世瑞仙晋の撰んだ池田 氏 ( し )行状をも疑わざることを得ない。 幕府からは嘉永三年以後十五人 扶持 ( ふち )出ることになり、 安政 ( あんせい )元年にまた職務俸の如き性質の五人扶持が給せられ、年末ごとに賞銀五両が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これを 以 ( もっ )て償うことは出来なかった。 そして墓誌の全文を見ることを得ず、その撰者を 審 ( つまびらか )にすることを得ざるのを 憾 ( うらみ )とする。 安は即ち後に阿部家に仕えた 金吾 ( きんご )である。 允成は 天保 ( てんぽう )二年六月からは、出羽国 亀田 ( かめだ )の城主 岩城 ( いわき ) 伊予守 ( いよのかみ ) 隆喜 ( たかひろ )に嫁した 信順 ( のぶゆき )の姉もと姫に伺候し、同年八月からはまた信順の室 欽姫附 ( かねひめづき )を兼ねた。 抽斎から見ての 大己 ( たいこ )である。 所詮 ( しょせん )今になって 戴曼公 ( たいまんこう )の表石や池田氏の墓碣の 踪迹 ( そうせき )を発見することは出来ぬであろう。 島は 記念 ( かたみ )のふくさを愛蔵して、真志屋へ持って来た。 富士川さんは 昔年 ( せきねん )日本医学史の資料を得ようとして、池田氏の墓に 詣 ( もう )でた。 是 ( かく )の如くに物を観る 眼 ( まなこ )は、今もなお教育家等の間に、前代の遺物として伝えられている。 素 ( もと )嶺松寺には 戴曼公 ( たいまんこう )の 表石 ( ひょうせき )があって、瑞仙はその 側 ( かたわら )に葬られたというのである。 五百の本丸を 下 ( さが )ったのは 何時 ( いつ )だかわからぬが、十五歳の時にはもう 藤堂家 ( とうどうけ )に奉公していた。 しかし京水が果して独美の 姪 ( てつ )であったなら、 縦 ( たと )い独美が一時養って子となしたにもせよ、 直 ( ただち )に瑞仙の子なりと書したのはいかがのものであろうか。 ただ抽斎の誕生を語るに当って、これをしてその天職を尽さしむるに 与 ( あずか )って力ある長者のルヴュウをして見たいというに過ぎない。 その三十 克己を忘れたことのない抽斎は、徳を 叱 ( しか )り懲らすことはなかった。 男 ( だん )は名を 善直 ( ぜんちょく )といったが、多病で業を継ぐことが出来なかったそうである。 それは手跡、和歌、 音曲 ( おんぎょく )の 嗜 ( たしなみ )を 験 ( ため )されるのである。 瑞長は大いに 羞 ( は )じて、すぐに芸者に 暇 ( いとま )を遣ったそうである。 保さんは幼い時京水の墓に 詣 ( もう )でたことがある。 3.服用後,次の症状があらわれることがありますので,このような症状の持続または増強が見られた場合には,服用を中止し,この文書を持って医師,薬剤師または登録販売者に相談してください 下痢 4.1ヵ月位服用しても症状がよくならない場合は服用を中止し,この文書を持って医師,薬剤師または登録販売者に相談してください 効能・効果 比較的体力があり,ときに下腹部痛,肩こり,頭重,めまい,のぼせて足冷えなどを訴えるものの次の諸症: 月経不順,月経異常,月経痛,更年期障害,血の道症,肩こり,打ち身(打撲症),めまい,頭重,しみ,湿疹・皮膚炎,にきび,しもやけ 効能関連注意 血の道症とは,月経,妊娠,出産,産後,更年期など女性のホルモンの変動に伴って現れる精神不安やいらだちなどの精神神経症状および身体症状のことである。 そのうちわたくしは富士川 游 ( ゆう )さんに種々の事を問いに 遣 ( や )った。 わたくしは 独 ( ひとり )撰者不詳の京水墓誌を疑うのみではない。 陸は今の 杵屋勝久 ( きねやかつひさ )さんである。 さて抽斎が弘前にいる間、江戸の 便 ( たより )があるごとに、必ず長文の手紙が徳から来た。 ふくさは数代 前 ( まえ )に 真志屋 ( ましや )へ嫁入した 島 ( しま )という女の遺物である。 墓は 谷中 ( やなか )斎場の向いの横町を西へ 入 ( い )って、北側の 感応寺 ( かんのうじ )にある。 当時津軽家に 静江 ( しずえ )という 女小姓 ( おんなごしょう )が勤めていた。 それから広島高等師範学校長 幣原坦 ( しではらたん )さんに書を 遣 ( や )って問うた。 それが前年に七十七の賀宴を 両国 ( りょうごく )の 万八楼 ( まんはちろう )で催したのを 名残 ( なごり )にして、今年 亡人 ( なきひと )の数に 入 ( い )ったのである。 同じ年に森 枳園 ( きえん )の家でも嫡子 養真 ( ようしん )が生れた。 安永四年の 生 ( うまれ )で、抽斎の母 縫 ( ぬい )と同年であったらしい。 それは上野の図書館にある『 江戸鑑図目録 ( えどかんずもくろく )』という写本を見て知ることが出来る。 六右衛門の称は 頗 ( すこぶ )る妙である。 抽斎渋江道純は 経史子集 ( けいしししゅう )や医籍を渉猟して考証の書を 著 ( あらわ )したばかりでなく、「古武鑑」や古江戸図をも蒐集して、その考証の 迹 ( あと )を手記して置いたのである。 医を 今大路 ( いまおおじ )侍従 道三 ( どうさん ) 玄淵 ( げんえん )に学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽 越中守 ( えっちゅうのかみ ) 信政 ( のぶまさ )に召し抱えられて、 擬作金 ( ぎさくきん )三枚十人扶持を受けた。 その一には「性如院宗是日体信士、 庚申 ( こうしん ) 元文 ( げんぶん )五年閏七月十七日」と、向って右の 傍 ( かたわら )に 彫 ( え )ってある。 二十八日には抽斎が 近習医者介 ( きんじゅいしゃすけ )を仰附けられた。 その 畛域 ( しんいき )内に池田氏の墓が数基並んで立っていたことを記憶している。 中にも『喫茗雑話』から抄したものは、漁村の撰んだ抽斎の墓誌の略で、わたくしはその 中 ( うち )に「道純 諱 ( いみな )全善、号抽斎、道純 其 ( その ) 字 ( あざな ) 也 ( なり )」という文のあるのを見出した。 抽斎は柏軒を愛して、 己 ( おのれ )の弟の如くに待遇した。 塩田は散歩するに友を 誘 ( いざな )わぬので、友が 密 ( ひそか )に跡に附いて行って見ると、竹の 杖 ( つえ )を指の腹に立てて、本郷 追分 ( おいわけ )の 辺 ( へん )を 徘徊 ( はいかい )していたそうである。 二世瑞仙はその中から簡抜せられて 螟蛉子 ( めいれいし )となったのである。 いわゆる津軽家の 御乗出 ( おんのりだし )がこれである。 今わたくしの 手近 ( てぢか )にある系図には、一豊の弟は 織田信長 ( おだのぶなが )に仕えた 修理亮 ( しゅりのすけ ) 康豊 ( やすとよ )と、 武田信玄 ( たけだしんげん )に仕えた 法眼 ( ほうげん ) 日泰 ( にったい )との二人しか載せてない。 墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、また「一女 平野氏 ( ひらのうじ ) 出 ( しゅつ )」としてある。 為隣は 寛保 ( かんぽう )元年正月十一日に家を継いで、二月十三日に通称の 玄春 ( げんしゅん )を二世 玄瑳 ( げんさ )と改め、翌寛保二年七月二日に歿し、跡には登勢が十二歳の 未亡人 ( びぼうじん )として 遺 ( のこ )された。 今の女が女学校に 往 ( ゆ )くように、修行をしに往くのである。 しかし既に 京水 ( けいすい )の墓が同じ寺にあったとすると、 徒士町 ( かちまち )の池田氏の人々の墓もこの寺にあっただろう。 「武鑑」を蒐集している事、「 古 ( こ )武鑑」に精通していた無名の人の著述が写本で伝わっている事、その無名の人は自ら抽斎と称している事、その写本に弘前の渋江という人の印がある事、抽斎と渋江とがもしや同人ではあるまいかと思っている事、これだけの事をわたくしは簡単に話して、外崎さんに解決を求めた。 手紙は 罫紙 ( けいし )十二枚に 細字 ( さいじ )で書いたものである。 安永二年に母が亡くなって、六年に独美は大阪に 往 ( ゆ )き、 西堀江 ( にしほりえ ) 隆平橋 ( りゅうへいばし )の 畔 ( ほとり )に住んだ。 千代は絶えなんとする渋江氏の血統を僅に 繋 ( つな )ぐべき子で、あまつさえ 聡慧 ( そうけい )なので、父母はこれを 一粒種 ( ひとつぶだね )と称して 鍾愛 ( しょうあい )していると、十九歳になった安永六年の五月三日に、辞世の歌を詠んで死んだ。 十一月六日に神田 紺屋町 ( こんやちょう ) 鉄物問屋 ( かなものどいや )山内忠兵衛妹 五百 ( いお )が来り嫁した。 保さんと会見してから間もなく、わたくしは 大礼 ( たいれい )に参列するために京都へ立った。 迥 ( はるか )にわたくしに 優 ( まさ )った 済勝 ( せいしょう )の具を有していた。 忠兵衛が 此 ( かく )の如くに子を育てたには来歴がある。 枳園は江戸で 暫 ( しばら )く浪人生活をしていたが、とうとう負債のために、家族を引き連れて 夜逃 ( よにげ )をした。 例に 依 ( よ )って翌年江戸に帰らずに、 二冬 ( ふたふゆ )を弘前で過すことになったのである。 予楽院 家煕 ( いえひろ )は 元文 ( げんぶん )元年に 薨 ( こう )じた。 恭忠は備後国福山の城主 阿部 ( あべ )伊勢守 正倫 ( まさとも )、 同 ( おなじく )備中守 正精 ( まさきよ )の二代に仕えた。 最後に七年四月二十六日に允成の 納 ( い )れた 室 ( しつ )は、 下総国 ( しもうさのくに ) 佐倉 ( さくら )の城主 堀田 ( ほった ) 相模守 ( さがみのかみ ) 正順 ( まさより )の臣、 岩田忠次 ( いわたちゅうじ )の妹 縫 ( ぬい )で、これが抽斎の母である。 渋江氏は 元禄 ( げんろく )の頃に津軽家に召し抱えられた医者の家で、代々勤めていた。 それが 礫 ( つぶて )を投げ掛けたり、灰を 蒔 ( ま )き掛けたりするというのである。 この書に正保二年の「屋敷附」を以て当時存じていた最古の「武鑑」類書だとして、巻首に載せていて、二年の二の字の 傍 ( かたわら )に四と 註 ( ちゅう )している。 然るに五百が藤堂家から帰った時、日野屋では困難な問題が生じて 全家 ( ぜんか )が 頭 ( こうべ )を悩ませていた。 中にも抽斎より 僅 ( わずか )に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、 疑 ( うたがい )を 質 ( ただ )すことにしていた。 二年近い旅から帰って、抽斎は 勉 ( つと )めて徳に親んで、父の心を 安 ( やすん )ぜようとした。 今残っている勝久さんと保さんとの 姉弟 ( あねおとうと )、それから終吉さんの父 脩 ( おさむ )、この三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、 山内 ( やまのうち )氏 五百 ( いお )の生んだのである。 この人が晩年に『 老子 ( ろうし )』を好んだので、抽斎も 同嗜 ( どうし )の人となった。 就中 ( なかんずく ) 異 ( い )とすべきは、独美に 玄俊 ( げんしゅん )という弟があって、それが宇野氏を 娶 ( めと )って、二人の間に出来た子が京水だという 一事 ( いちじ )である。 恐らくはこの最後の策に 出 ( い )づることをば、抽斎にも打明けなかっただろう。 本 ( もと )は 芝 ( しば )の料理店 鈴木 ( すずき )の 倅 ( せがれ ) 定次郎 ( さだじろう )で、屋根屋へは養子に来た。 重兵衛は文久元年に京都へ 往 ( ゆ )こうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。 それを温和に過ぐる性質の安は 諌 ( いさ )めようともしないので、五百は姉を訪うてこの様子を見る度にもどかしく思ったが 為方 ( しかた )がなかった。 尋 ( つ )いで弘化三年十一月二十二日に至って、忠兵衛は隠居して、日野屋の家督を 僅 ( わずか )に二歳になった抽斎の三女 棠 ( とう )に相続させ、自分は 金座 ( きんざ )の役人の株を買って、広瀬栄次郎と 名告 ( なの )った。 惟 ( ただ )経史子集は世の重要視する所であるから、『経籍訪古志』は一の 徐承祖 ( じょしょうそ )を得て公刊せられ、「古武鑑」や古江戸図は、わたくしどもの如き微力な 好事家 ( こうずか )が 偶 ( たまたま )一顧するに過ぎないから、その目録は 僅 ( わずか )に存して人が 識 ( し )らずにいるのである。 しかし京水が 後 ( のち ) 能 ( よ )く自ら樹立して、その文章事業が晋に比して 毫 ( ごう )も 遜色 ( そんしょく )のないのを見るに、この人の凡庸でなかったことは、推測するに 難 ( かた )くない。 その徳川 家慶 ( いえよし )に謁したのは 嘉永 ( かえい )中の事である。 しかし抽斎は俳優の 技 ( ぎ )を、 観棚 ( かんぽう )から望み見て 楽 ( たのし )むに過ぎない。 心当りの 向々 ( むきむき )へ問い合せて見ようといった。 抽斎の 著 ( あらわ )した書で、存命中に 印行 ( いんこう )せられたのは、ただ『 護痘要法 ( ごとうようほう )』一部のみである。 もし抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人の 袖 ( そで )は 横町 ( よこちょう )の 溝板 ( どぶいた )の上で 摩 ( す )れ合ったはずである。 阿部家は既に 備中守 ( びっちゅうのかみ ) 正精 ( まさきよ )の世になっていた。 駿河国島田駅の素封家で、詩 及 ( および )書を善くした。 ただ「撰経籍訪古志」に訓点を施して、経籍を撰び、古志を 訪 ( と )うと 訓 ( よ )ませてあるのに 慊 ( あきたら )なかった。 島の 里方 ( さとかた )を 河内屋半兵衛 ( かわちやはんべえ )といって、真志屋と同じく水戸家の 賄方 ( まかないかた )を勤め、三人扶持を給せられていた。 その 豊亭 ( ほうてい )と号するのも、豊住町に取ったのである。 しかし 誰 ( たれ )にたよろうというあてもないので、うろうろしているのを、日蓮宗の僧 日明 ( にちみょう )が見附けて、 本所 ( ほんじょ ) 番場町 ( ばんばちょう )の 妙源寺 ( みょうげんじ )へ連れて帰って、 数月 ( すうげつ )間 留 ( と )めて置いた。 大村には勝重の 往 ( ゆ )く前に、 源頼朝 ( みなもとのよりとも )時代から続いている渋江 公業 ( こうぎょう )の 後裔 ( こうえい )がある。 しかし枳園は平生 細節 ( さいせつ )に 拘 ( かかわ )らぬ人なので、諸方面に対して、世にいう不義理が重なっていた。 文政十二年三月十七日に歿して、享年五十三であったというから、抽斎の生れた時二十九歳で、 本郷 ( ほんごう ) 真砂町 ( まさごちょう )に住んでいた。 この事件に関してわたくしの往訪した人、書を寄せて教を 乞 ( こ )うた人は 頗 ( すこぶ )る多い。 そこで 病 ( やまい ) 革 ( すみやか )なるとき、 信濃 ( しなの )の人 某 ( それがし )の子を養って 嗣 ( し )となし、これに登勢を配した。 画 ( え )を善くして、「 外浜画巻 ( そとがはまがかん )」及「 善知鳥 ( うとう )画軸」がある。 然るに津軽家は 秀信 ( ひでのぶ )の世に 勢 ( いきおい )を失って、南部家の 後見 ( うしろみ )を受けることになり、後 元信 ( もとのぶ )、 光信 ( みつのぶ )父子は人質として南部家に往っていたことさえある。 富士川さんがこれに答えた中に、京水の墓は常泉寺の 傍 ( かたわら )にあるという事があった。 孟浩然 過故人荘 詩詞世界 碇豊長の詩詞:漢詩 MengHaoran 過故人莊 孟浩然 故人具鷄黍, 邀我至田家。 弘前 ( ひろさき )の城主 津軽順承 ( つがるゆきつぐ )の 定府 ( じょうふ )の医官で、当時 近習詰 ( きんじゅづめ )になっていた。 諸家の 中 ( うち )でも、 戸川残花 ( とがわざんか )さんはわたくしのために 武田信賢 ( たけだしんけん )さんに問うたり、 南葵 ( なんき )文庫所蔵の書籍を検したりしてくれ、 呉秀三 ( くれしゅうぞう )さんは医史の資料について捜索してくれ、 大槻文彦 ( おおつきふみひこ )さんは 如電 ( にょでん )さんに問うてくれ、如電さんは向島へまで墓を探りに往ってくれた。 曼公、名は 笠 ( りつ )、 杭州 ( こうしゅう ) 仁和県 ( じんわけん )の人で、曼公とはその 字 ( あざな )である。 墨汁師の新年の書信に問合せの結果が 記 ( しる )してあったが、それは 頗 ( すこぶ )る 覚束 ( おぼつか )ない 口吻 ( こうふん )であった。 老いたる祖母は浦賀で 困厄 ( こんやく )の間に歿した。 それを区役所に問うのは余りに 痴 ( おろか )であろう。 忠兵衛の家は、この二人の内いずれかの 裔 ( すえ )であるか、それとも外に一豊の弟があったか、ここに 遽 ( にわか )に 定 ( さだ )めることが出来ない。 ただ 憾 ( うら )むらくもわたくしは 徒 ( いたずら )にこれらの諸家を煩わしたに過ぎなかった。 この蒐集の間に、わたくしは「弘前医官渋江 氏 ( うじ )蔵書記」という朱印のある本に 度々 ( たびたび ) 出逢 ( であ )って、中には買い入れたのもある。 通称は 祐助 ( ゆうすけ )である。 しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくは 相貌 ( そうぼう )の立派な人で、それが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであろう。 池田家の 後 ( のち )は今どうなっているかわかりませんか。 これを除いては、ここに数え挙げるのも 可笑 ( おか )しいほどの『 四 ( よ )つの海』という 長唄 ( ながうた )の本があるに過ぎない。 かつわたくしは京水の墓誌が 何人 ( なにひと )の 撰文 ( せんぶん )に係るかを知らない。 間もなく本郷 森川宿 ( もりかわじゅく )のお七の家は 天和 ( てんな )二年十二月二十八日の火事に類焼した。.

  • .

  • .




2022 www.electionhackathon.com